まだ日が昇りきっていない朝に、鐘の音が響いた。
鐘の音はここ『ナクラル村』の象徴でもある『詠命の鐘』が、毎朝鳴らす音である。その音はうるさくもなく、心地よい音色だった。
大抵の村の人間はこの音で快く目が覚めるものなのだが、
「ん……?」
ガバッ、と少年は布団から上半身を起こした、まま硬直している。
「……」
まだ眠たそうな顔でしばらく考えた後、
「……朝か」
また寝てしまいそうな声でそう呟いた。
元々少年は朝が弱いのか、鐘の音の意味もなんのなかった。そして少年は窓の外を見ながら、ついさっきまで見ていた夢を思い出す……。
「懐かしい夢を見たな……」
まだ眠たそうな声を発しながら遠くを見つめる。その夢は少年がまだ幼かったころの記憶だ。もう10年も前になる。
その夢を見るたび、少年は思い出す。少年が目にした最初の光景。最初の記憶を。
少年にとってこれは、決して忘れることのない忘れられない記憶≠ナある。
「さて、と」
少年は布団をたたんで階段を降りる。ちなみに彼の部屋は2階にあるのだが、2階には彼の部屋と物置しかない。物置は、あまり入ったことがないので中がどうなっているかは全く分からない。住み慣れた家にある部屋なのに、なにか気味が悪い場所である。
階段を降り、廊下を進むと居間に入る。
居間に入るとそこには一人の男がいた。少年の父親。名前は『井之上雅人』という。
雅人は外見では、まだ20代の前半といったところなのだが、実際は36歳である。雅人は黒縁の眼鏡をかけている。その眼鏡が彼の存在感を強めているのかもしれない。体型はスッキリしている。それというのは、雅人の仕事は主に科学関係であるからだ。そのせいだろうか、普段着はほとんど白衣なので、少し痩せて見える。
しかし、それだけではない。最近は仕事の量も多くて、疲れているのせいだろう。とっくに起きていたはずなのに、眠そうな顔をしている。
少年はそんな父親に声を掛ける。
「おはよう、父さん」
「やぁ。おはよう、蒼真」
『井之上蒼真』 これが少年の名前である。
名前は雅人に教えてもらい、歳も教えてもらった。今年で16歳になるらしい。雅人が言うには、そろそろ誕生日だそうだ。
あれから蒼真は頭が割れるような思いを繰り返してきたが、やはり思い出すことはできない。
『記憶喪失』というものには種類がある。
脳への外傷、あるいは精神的なショックなど何らかの知識障害により、過去の記憶を思い出せないこと。健忘症ともいわれ、程度により全健忘、部分健忘などがある。そして名前、家族など自分自身に関することを忘れてしまうものを全生活史健忘という。
つまり、蒼真は全生活史健忘なのである。ただ覚えているのは社会的記憶だけであり、家族、知り合い、蒼真が今まで関わってきた者たちの記憶、個人的記憶を全て忘れているのだ。
それは、自分だけが知らない世界に取り残されたような孤独感。
蒼真は、そんな思いを10年も引きずってきたのだ。
なぜか、雅人はなにも教えてくれない。なにか思い出してはいけないことがあるのか、難しい顔で話題を流している。記憶がなくなった原因だけでも、と蒼真は一度だけ訊いたことがある。雅人の答えは、
「事故で記憶がなくなったんだよ」
これしか言わなかった。それから黙り込んでしまったので詳しい詮索をするのも無駄だった。
だが、それらの信頼できる情報が雅人を父親だと認識させたのだ。
思い出を失った蒼真に、父親は絶対に必要な存在なのだ。
突然、雅人がなにか思い出したように言う。
「蒼真、今日は道場の日じゃなかったかな? 早く準備をしたほうがいいんじゃないかい?」
「あ!? そうだった……早く起きれたことに安心して忘れてたよ」
古時計を見ると、もう午前7時30分を過ぎている。古時計はネジ式のものだ。この時代には、とても古い代物だ。昔はデジタル時計、電子表示の時計があったらしいが、今の時代にはそんな物はない。
いや、使えないといったほうが正しいだろう。
今から数十年前、正確な日付は分からないが、地球に正体不明の化学粒子が突如出現したのは確かである。その化学粒子は全ての電子回路を使用不可能にするものだった。この化学粒子による事故での死者は全世界で1億にも及んだという。
この時代が『文明の凍結』と名づけられた時から、人類は機械を使わない生活を余儀なくされた。その化学粒子が生まれた、場所、原因、理由は、いまだ解明されていない。
人々は森林開発を検討し、現在では地球のほとんどの国には森が茂っている。地球には自然が増え、人々は豊かな生活を取り戻そうとしている。
だが、失敗する国もある。元々砂漠化が進んでいた国で森林開発とはムリな話だからだ。だから、今の時代では1つの国に数ヶ国の人が住んでいる。
例えば、日本にはアメリカ人や欧米人、同じアジアの中国などからの来訪者も多い。
そして、問題の化学粒子は『死期よりの使者』と名づけられ、全世界共通の研究対象となっている。
「蒼真、顔を洗ってきなさい。その間に朝食を作っておくよ」
「うん、ありがとう」
蒼真は洗面所に向かう。
世界の歴史は全て雅人から教わっている。
記憶をなくしていた蒼真には歴史≠ニいうものは興味のあるものだった(知っていたのかもしれないが、覚えていないのだ)
顔を洗い終わって、顔をタオルで拭きながら居間に戻ってくる。
と、すでに焼きあがったパンと、コップに注がれた牛乳がテーブルに置いてあった。行動が早い父親だ、と思いながら感謝して、席に着いた。
「いただきます」
「はい、召し上がれ」
パンを咥えながら時計を見てみると、時間は午前8時。今頃思い出したが、道場に通っている友人たちとの約束の時間は午前9時。まだ1時間の余裕はある。
ちらっと父親を見てみると、眠そうに新聞を読んでいる。
この時代ではテレビ、と言われるものがないので新聞で情報を見るしかないのだ。印刷関係の機器も使用不能になっているので活版印刷という方法で印刷しているらしい。
蒼真はそんな事を思いながら、パンの最後の一切れを牛乳と共に口に流し込む。
「ごちそうさまでした」
「片付けは私がやるから、蒼真は着替えてきなさい」
「うん、分かった」
再び2階に上がり、部屋に戻ると、寝巻きを脱いで私服に着替える。蒼真は主に青を基準とした服を着ている。彼にとっては、特に意味はない。名前に蒼が入ってるからかもしれないが、蒼真自身そう思ったことはない。
急いで無地の白い服の上に青色の上着を羽織り、ファスナーを上げる。ズボンは灰色と薄い青が混ざったようなジーンズだ。さらに、足と腰にポーチのような袋を付ける。足の袋には筒が入っている。そして筒の中には水が入っている。
その水は蒼真にとって大事なものである。これは蒼真にとっては、命に関わることかもしれないモノだ。しかし、そんな様子も見せず、蒼真は遅刻常習者の汚名を返上するために慌てて階段を駆け降りている。
居間に入り時間を確認すると、午前8時半。これなら待ち合わせになんとか間に合いそうだ、と蒼真は思った。なにもなければ余裕のはずだ。
靴裏が磨り減ってきた靴を履いて玄関に出る。扉を開ける前に後ろを見ると、雅人が見送りにきていた。これが家族なんだな。と、蒼真が思える瞬間である。
「じゃあ、父さん。行ってきます」
「はい、行ってらっしゃい。蒼真」
扉を開けると眩しい光が全身を包み込む。今日の天気は快晴。それをを確認して、蒼真は森へと向かった。
ここは平和の村『ナクラル村』 そして『新緑の村』とも呼ばれる、森に囲まれた村でもある。
これが、少年の日常。変わることない日々。